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甘ったるいお菓子には塩気が必要 [アニメ 感想]
恋にスポーツにと、ほとばしる情熱を前向きに発散させた過ごし方ばかりが青春ではないと、
アニメではそんな姿を馬鹿馬鹿しいと斜に構えた主人公を据えてくることが多い。それは
アニメ視聴者、並びにアニメ関係者の多くが、どちらかと言えば、そのような鬱屈した青春時代を
過ごしたタイプの人間が多いからではないだろうか?
その手の卑屈な少年を主人公とし、それをグイグイと引っ張り回す女の子をヒロインとした構図の
物語を描くことが多い京都アニメーションでは、今春の新作、”氷菓”でもまた、その線の話の
原作小説をアニメ化してきている。これは悲観的であったり、厭世的であったりする主人公の少年が
ヒロインの女の子や数少ない仲間たちとバッドコミュニケーションする中で、考え方から徐々に
行動や態度までが変わっていく姿を描き、似たような得るものの少ない青春時代を送った人々にも
何かしら感じるものを与え、人はいつだってちょっとしたこときっかけで変わってゆけるんだよ!
人生ってのは考え方一つでこんなに鮮やかに見えることだってあるんだよ!ってことを伝えようと
しているのではないか?だから主人公は最初は全く何もしない、本当に何もしたがらない。
もう学校に来ていること自体が何でか分からない、省エネが信条なら通信制にでも行けばいいと
思うところ。これまでの京アニ作品における、ハルヒのキョンやクラナドの智也などにも、
まあ確かに鬱屈していてジジくさい面もあっただろうが、それでもまだその中に多少のユーモアを
感じさせる部分はあった。だが今度の氷菓の主人公、折木奉太郎に至っては、本当にただ鬱屈して
性根が腐っている奴としか認識できない。これからこのネクラな奉太郎がヒロインのえると出会い
古典部で活動していく中でどのように変わっていけるのだろうか?変化する姿は現状では
あまり想像つかないのだが。エルや友人の何とか、そしてもう一人の何とかという女の子も、
何故こんな何をやるのもわずらわしいと公言している奉太郎なんかと付き合いを続けているのだろう?
作中ではその辺の理由めいたものがまだ描写されていないので分からないが、きっと中学時代に
何かしら事件があったのだろう。大切な人を失うような事件があったのではないか?そこで友人の
春原みたいな奴に助けられることもあって切っても切れない縁みたいなのが出来たのではないか?
その辺はこの先に描かれることになるだろうから、原作小説は見ないでおくべきだ。
そしてえるという少女は、頭がマッチ棒のようでそこそこブス気味のようだが、それでも何故
このようにまともに接しようともしない奉太郎に積極的にコミュニケーションをとろうとするのだろうか?
まあ言ってしまえば一目ぼれ、顔が好みだったとすればそれまでなので、きっとそれ以外に何か、
以前に何かしらの面識のようなもの、えるを窮地から救いだしたなど、えるだけが一方的に
覚えている因縁があるのだろう。そしてえるはその頃から奉太郎に好意を寄せていて、奉太郎に
変わってほしいと関わっている、自分がこの男をなんとかしてやろうと、ゆくゆくは奉太郎を
自分のヒモにしてもいいと、それぐらい思い入れがあるということではないだろうか?多分
その辺りの回想話も描かれることもあるだろうし、スルーされる可能性だってある。
氷菓は基本学園推理ものの体をとっているようだが、まだとりたてて事件っぽいことは起きていない。
奉太郎には実は人並み外れた洞察力があるんだと分からせるためや人物紹介のゆるやかな
序盤だったということだろう。えるのおじさんがやや謎めいた人物の様で、そこから昔の古典部の
活動に関しての謎にも踏み込んでいくことで、古典部の4人のメンバーはもしかしたらとてつもない
事件に巻き込まれていくことになるのかもしれない。そこで奉太郎がどのように氷菓として
出来上がっていくのか、どのような甘い部分をみせてくれるのかが、作中ポイントとなる。
現代の高校を舞台としているようだが、出てくる人物を観ていると、どこか一昔前の高校生の
ようにも見える。それは田舎だからだろうか、小物を利かせられていないからだろうか、多分
田舎なのに逆にあるべき派手さがなくて、皆おとなしくて落ち着きすぎているように見えるから
だろう。ワイルドだぜぇ~。終。
アニメではそんな姿を馬鹿馬鹿しいと斜に構えた主人公を据えてくることが多い。それは
アニメ視聴者、並びにアニメ関係者の多くが、どちらかと言えば、そのような鬱屈した青春時代を
過ごしたタイプの人間が多いからではないだろうか?
その手の卑屈な少年を主人公とし、それをグイグイと引っ張り回す女の子をヒロインとした構図の
物語を描くことが多い京都アニメーションでは、今春の新作、”氷菓”でもまた、その線の話の
原作小説をアニメ化してきている。これは悲観的であったり、厭世的であったりする主人公の少年が
ヒロインの女の子や数少ない仲間たちとバッドコミュニケーションする中で、考え方から徐々に
行動や態度までが変わっていく姿を描き、似たような得るものの少ない青春時代を送った人々にも
何かしら感じるものを与え、人はいつだってちょっとしたこときっかけで変わってゆけるんだよ!
人生ってのは考え方一つでこんなに鮮やかに見えることだってあるんだよ!ってことを伝えようと
しているのではないか?だから主人公は最初は全く何もしない、本当に何もしたがらない。
もう学校に来ていること自体が何でか分からない、省エネが信条なら通信制にでも行けばいいと
思うところ。これまでの京アニ作品における、ハルヒのキョンやクラナドの智也などにも、
まあ確かに鬱屈していてジジくさい面もあっただろうが、それでもまだその中に多少のユーモアを
感じさせる部分はあった。だが今度の氷菓の主人公、折木奉太郎に至っては、本当にただ鬱屈して
性根が腐っている奴としか認識できない。これからこのネクラな奉太郎がヒロインのえると出会い
古典部で活動していく中でどのように変わっていけるのだろうか?変化する姿は現状では
あまり想像つかないのだが。エルや友人の何とか、そしてもう一人の何とかという女の子も、
何故こんな何をやるのもわずらわしいと公言している奉太郎なんかと付き合いを続けているのだろう?
作中ではその辺の理由めいたものがまだ描写されていないので分からないが、きっと中学時代に
何かしら事件があったのだろう。大切な人を失うような事件があったのではないか?そこで友人の
春原みたいな奴に助けられることもあって切っても切れない縁みたいなのが出来たのではないか?
その辺はこの先に描かれることになるだろうから、原作小説は見ないでおくべきだ。
そしてえるという少女は、頭がマッチ棒のようでそこそこブス気味のようだが、それでも何故
このようにまともに接しようともしない奉太郎に積極的にコミュニケーションをとろうとするのだろうか?
まあ言ってしまえば一目ぼれ、顔が好みだったとすればそれまでなので、きっとそれ以外に何か、
以前に何かしらの面識のようなもの、えるを窮地から救いだしたなど、えるだけが一方的に
覚えている因縁があるのだろう。そしてえるはその頃から奉太郎に好意を寄せていて、奉太郎に
変わってほしいと関わっている、自分がこの男をなんとかしてやろうと、ゆくゆくは奉太郎を
自分のヒモにしてもいいと、それぐらい思い入れがあるということではないだろうか?多分
その辺りの回想話も描かれることもあるだろうし、スルーされる可能性だってある。
氷菓は基本学園推理ものの体をとっているようだが、まだとりたてて事件っぽいことは起きていない。
奉太郎には実は人並み外れた洞察力があるんだと分からせるためや人物紹介のゆるやかな
序盤だったということだろう。えるのおじさんがやや謎めいた人物の様で、そこから昔の古典部の
活動に関しての謎にも踏み込んでいくことで、古典部の4人のメンバーはもしかしたらとてつもない
事件に巻き込まれていくことになるのかもしれない。そこで奉太郎がどのように氷菓として
出来上がっていくのか、どのような甘い部分をみせてくれるのかが、作中ポイントとなる。
現代の高校を舞台としているようだが、出てくる人物を観ていると、どこか一昔前の高校生の
ようにも見える。それは田舎だからだろうか、小物を利かせられていないからだろうか、多分
田舎なのに逆にあるべき派手さがなくて、皆おとなしくて落ち着きすぎているように見えるから
だろう。ワイルドだぜぇ~。終。
タグ:氷菓 千反田える パンツ
何処から奏でたるものか [ちはやふる]
本来クラスでは地味で目立たないタイプの女の子ではないかと思える。知る人ぞ知る、的な
秘かに楽しんでますよ、僕はこの娘を眺めることをね、ヘヘッ。と机くんみたいな冴えない男子が、
想いを寄せる女子としては適任ではないだろうか?
~大江奏さん~通称かなちゃん
かるた部に入ったことで、今でこそ皆からかなちゃん、かなちゃ~んと呼ばれ親しまれている
大江さんだが、それ以前のかなでさんはきっと、どっちかと言うとクラスでも取っつきにくい側の
女子だったのではないだろうか?それは若い女性でありながら決して流行に流されるタイプでは
なく、むしろ古典大好き、着物大好きであったり(呉服屋の娘だから、親としてもとっとも
ありがたい娘、普通反発するぞ!逆に着物なんてって、毛嫌いされるぞ!つまり育ちもいい、
気立ての良い娘)、それは高校生でありながら年頃の若者の事情には疎いことも意味するので、
どういったことから会話を切り出して、弾ませ、関係性を発展させていったらいいのかあまり
シミュレーションできない、想像できないことから、それなりにカワイイとは思っているものの、
冴えない男子たちからしたら、余計遠巻きに眺めるだけでも良し!とされていた理由なのだ。
以前私は大江奏さんについて触れた記事において、かなでさんは西田や倉田のような、
かるた部の冴えない男子に対しても、千早とは違い、肉まんやつくえなどの蔑称では呼ばずに
ちゃんと名前で呼んでくれていることから、より好感度も増すなどと述べていたが、その後
作品をよくよく観ていると、どうやらそれは明らかな間違いであった。かなでさんも何気に
つくえ、つくえと連呼していた。肉まんの方はどうかは分からないが、こっちは西田クンと
呼んでいたような気がするのだが、つまりつくえの方はあからさまに眼中に無いということか?
真島はやはり真島クン。これにはやや信じていた人に裏切られた気分もした。そして千早に
謝りたくなった。千早が終始一貫して、肉まんや机やヒョロくんなどと言う呼び名を付けていた
ことは、別に悪気があってそうしていたのではないのだと、むしろ全ての男子は私に気軽に
接してくれていいんだよ。と、かなでさん以上に取っつきにくいモデル級の美少女である
千早だから、本人がそれを自覚している意外に賢明な娘だったから、自分から相手に親しみを
込めたつもりで愛称をつけて、壁をとっぱらってくれていたんだ!って考えれば、
千早も制服姿の時ならば、何だかかなでさん以上にカワイいくも見えてくる。そんな千早の
姿勢に安易に乗っかってかなでも机などと呼んでいたとするなら、かなでさんは何だか性格ブスだし、
案外軽い女の子だったのかなぁ?とも思えてくる。だけれどもそうやって同じ愛称を使うのは
仲間意識のアピールだったとしたら、そして、古臭い趣味の私だって、同世代のみんなと
似たような感覚持ってますよ!というアピールでもあったとしたら、かなでちゃんはきっと、
自分も普通の女の子だってことを認識してほしくて、人並みに恋したいんじゃあないかなぁ?
それかもう誰かに恋してるってことかも?多分あるとしたら太一、それが駄目なら肉まんか?無いな。
かなでさんは作中しばしばその豊満なバストが強調されて、男子どもの目線を惹く場面もあったり
するが、それはかなでさんの魅力を表すところとしてはふさわしくないし、内面を軽視している。
確かにかなでさんのようにおとなしめで小柄な娘が、大層な巨乳を持っていたら、それはもう
性の対象としては簡単に惹きつけられちゃうのは分からないでもないが、やはりそれでは
安易である。相手を想いやる真摯な姿勢が見えないからだ。最初に述べたように、かなでさんは
元々教室内では地味目な女の子だったはずだ。そのかなでさんが、みんなから突如魅力的に
思われだしたのは、決してそのビッグバストが偶然発見されたからではないはずだ。
かなでさんが魅力的に映りだしたのは、彼女がしゃんと背筋を伸ばし、胸を張るようになったからだ。
体力的には人より弱いのに、人より重い胸を抱えているから、ややもすると前かがみで
悪い姿勢になりがちだったかなでさんが、変わるきっかけになったのはかるた部である。
自分の趣味と合致して、前向きに、体動かす方向に変化させてくれたのはかるた部であって、
誘ってくれた千早でもある。かるたで勝ちたいから、どちらかといえば苦手であった体力面においても
充実を図らねばと、懸命に汗している姿は美しい。決して胸単体ではなく、かなでさんの体全体から
発せられる雰囲気のようなもの、所作、立ち振る舞いから変わってきたからこそ、彼女の姿はきっと
魅力的に見えだしたのだろう。かるたに限らずとも、何かに一生懸命になる娘は美しい、それが
たとえ要領が悪くとも、奮闘している姿ほどより輝いて見えるものなのだ。
かなでさんの魅力は、大きいとはいえその胸だけに詰めきれるものではない。どちらかと言えば
お尻の方により彼女の魅力が表れている。それはかるたやる際に、お尻の使い方が重要と
なってくるからだ。かるたの読み上げに即座に反応して、素早く札をはたくには、
お尻の推進力がモノを言う。彼女は胸と同様に、お尻もかなりの重量を誇っている。一見すると
それは重くて、かるたにはマイナス要素にもなりそうだが、鍛え上げて引き締めれば、きっと
爆発的なパワーを生む。胸も大きくバランスが取れている彼女ならばなおさらだ。それは
前かがみになって、かるたの札に真剣に向かえば向かうほどに、目の前の相手に得も言えぬ
圧力を与え、浮かせ気味のお尻が秘めるとてつもないパワーが原動力となり、二つの胸へと伝わり、
そこから腕、手から札へと至る張り手へのスムーズな流れとなって発揮される。その姿は美しい。
終。
秘かに楽しんでますよ、僕はこの娘を眺めることをね、ヘヘッ。と机くんみたいな冴えない男子が、
想いを寄せる女子としては適任ではないだろうか?
~大江奏さん~通称かなちゃん
かるた部に入ったことで、今でこそ皆からかなちゃん、かなちゃ~んと呼ばれ親しまれている
大江さんだが、それ以前のかなでさんはきっと、どっちかと言うとクラスでも取っつきにくい側の
女子だったのではないだろうか?それは若い女性でありながら決して流行に流されるタイプでは
なく、むしろ古典大好き、着物大好きであったり(呉服屋の娘だから、親としてもとっとも
ありがたい娘、普通反発するぞ!逆に着物なんてって、毛嫌いされるぞ!つまり育ちもいい、
気立ての良い娘)、それは高校生でありながら年頃の若者の事情には疎いことも意味するので、
どういったことから会話を切り出して、弾ませ、関係性を発展させていったらいいのかあまり
シミュレーションできない、想像できないことから、それなりにカワイイとは思っているものの、
冴えない男子たちからしたら、余計遠巻きに眺めるだけでも良し!とされていた理由なのだ。
以前私は大江奏さんについて触れた記事において、かなでさんは西田や倉田のような、
かるた部の冴えない男子に対しても、千早とは違い、肉まんやつくえなどの蔑称では呼ばずに
ちゃんと名前で呼んでくれていることから、より好感度も増すなどと述べていたが、その後
作品をよくよく観ていると、どうやらそれは明らかな間違いであった。かなでさんも何気に
つくえ、つくえと連呼していた。肉まんの方はどうかは分からないが、こっちは西田クンと
呼んでいたような気がするのだが、つまりつくえの方はあからさまに眼中に無いということか?
真島はやはり真島クン。これにはやや信じていた人に裏切られた気分もした。そして千早に
謝りたくなった。千早が終始一貫して、肉まんや机やヒョロくんなどと言う呼び名を付けていた
ことは、別に悪気があってそうしていたのではないのだと、むしろ全ての男子は私に気軽に
接してくれていいんだよ。と、かなでさん以上に取っつきにくいモデル級の美少女である
千早だから、本人がそれを自覚している意外に賢明な娘だったから、自分から相手に親しみを
込めたつもりで愛称をつけて、壁をとっぱらってくれていたんだ!って考えれば、
千早も制服姿の時ならば、何だかかなでさん以上にカワイいくも見えてくる。そんな千早の
姿勢に安易に乗っかってかなでも机などと呼んでいたとするなら、かなでさんは何だか性格ブスだし、
案外軽い女の子だったのかなぁ?とも思えてくる。だけれどもそうやって同じ愛称を使うのは
仲間意識のアピールだったとしたら、そして、古臭い趣味の私だって、同世代のみんなと
似たような感覚持ってますよ!というアピールでもあったとしたら、かなでちゃんはきっと、
自分も普通の女の子だってことを認識してほしくて、人並みに恋したいんじゃあないかなぁ?
それかもう誰かに恋してるってことかも?多分あるとしたら太一、それが駄目なら肉まんか?無いな。
かなでさんは作中しばしばその豊満なバストが強調されて、男子どもの目線を惹く場面もあったり
するが、それはかなでさんの魅力を表すところとしてはふさわしくないし、内面を軽視している。
確かにかなでさんのようにおとなしめで小柄な娘が、大層な巨乳を持っていたら、それはもう
性の対象としては簡単に惹きつけられちゃうのは分からないでもないが、やはりそれでは
安易である。相手を想いやる真摯な姿勢が見えないからだ。最初に述べたように、かなでさんは
元々教室内では地味目な女の子だったはずだ。そのかなでさんが、みんなから突如魅力的に
思われだしたのは、決してそのビッグバストが偶然発見されたからではないはずだ。
かなでさんが魅力的に映りだしたのは、彼女がしゃんと背筋を伸ばし、胸を張るようになったからだ。
体力的には人より弱いのに、人より重い胸を抱えているから、ややもすると前かがみで
悪い姿勢になりがちだったかなでさんが、変わるきっかけになったのはかるた部である。
自分の趣味と合致して、前向きに、体動かす方向に変化させてくれたのはかるた部であって、
誘ってくれた千早でもある。かるたで勝ちたいから、どちらかといえば苦手であった体力面においても
充実を図らねばと、懸命に汗している姿は美しい。決して胸単体ではなく、かなでさんの体全体から
発せられる雰囲気のようなもの、所作、立ち振る舞いから変わってきたからこそ、彼女の姿はきっと
魅力的に見えだしたのだろう。かるたに限らずとも、何かに一生懸命になる娘は美しい、それが
たとえ要領が悪くとも、奮闘している姿ほどより輝いて見えるものなのだ。
かなでさんの魅力は、大きいとはいえその胸だけに詰めきれるものではない。どちらかと言えば
お尻の方により彼女の魅力が表れている。それはかるたやる際に、お尻の使い方が重要と
なってくるからだ。かるたの読み上げに即座に反応して、素早く札をはたくには、
お尻の推進力がモノを言う。彼女は胸と同様に、お尻もかなりの重量を誇っている。一見すると
それは重くて、かるたにはマイナス要素にもなりそうだが、鍛え上げて引き締めれば、きっと
爆発的なパワーを生む。胸も大きくバランスが取れている彼女ならばなおさらだ。それは
前かがみになって、かるたの札に真剣に向かえば向かうほどに、目の前の相手に得も言えぬ
圧力を与え、浮かせ気味のお尻が秘めるとてつもないパワーが原動力となり、二つの胸へと伝わり、
そこから腕、手から札へと至る張り手へのスムーズな流れとなって発揮される。その姿は美しい。
終。
青春の汗はキセキを描く [夏色キセキ]
実にみずみずしい。匂い立つような魅力が画面上からほとばしっている。若さを全面に
ちりばめた彼女らの姿は、何気ない日常の一コマにおいても輝きをはなつ。それは青春の輝き
だから。限られた僅かな期間だから輝く。青春の汗はきっと虹色、イイ匂いがする。
みんなで遊んだ思い出は永久に色褪せることはない。
いろんな経験をすること、恥ずかしい体験や、悔しい思い、時には思春期特有の不思議な感覚も
味わいながら女の子たちは成長してゆく。そう、それこそがキセキ。どんな日常だって、どんな
一日だって、二度とはやってこない掛けがえのない日々。取り返しがつかない感覚は青春してる
からなんだ、あの体験はキセキみたいだったって、あの夏はまるでキセキのような夏だったねって、
いつの日か、思うようになるのかな?
~夏色キセキ~
この物語に出てくる女の子たちには、画面から浮き立つような妙にリアルな質感がある。
それは彼女らが、お願いすれば空だって飛べたり、心が入れ替わったり、分裂しちゃったり
するような特殊な能力を発揮するからか?いや違う、彼女らはそんな特殊な境遇を何ら意に介す
こともなく、日々自分たちの生きている青春に邁進しているから。実のところ、地に足着いた
女の子たちの生き生きとした日常が描写されているからこそ、等身大の中学生女子が、
汗して日々を奮闘している姿が描かれているからこそ、夏色キセキの女の子たちは魅力的に
映るのだろう。
しばしばこういった女の子や男の子がたむろうことがメインになってくる話では、特に何もせず
ゆる~い日常が描かれることも多い。だから向き合うべき現実を想起させるような、親や恋愛や
貧困や労働などの表現は極力避けるのだろう。とにかくカワイイ女の子たちのきゃぴきゃぴとした
姿を、愛玩動物のように楽しめればいいと。一見夏色キセキも、そのようなまったりとした
青春ライフが送られていくような作品にも思える。だがこの作品の女の子たちは、部活に
勤しんでいたり、親のお手伝いをしていたり、勉強したり恋したり、意外にゆるくもない、
いそがしくまともな青春ライフを送っていて、それが夏で大量にかく汗でも表現されており、
女の子たちのリアルな質感も高まっているのだろう。
だからこそ、まぶしく映りすぎるからこそ、こんなまっとうに汗を流し青春する女の子の姿は
受け入れがたい部分もあるだろう。アニメではアピールする積極的女子はどこか引いた目でも
見られやすい。ましてやそんなあるべき等身大女の子の姿を描いておきながら、
空まで飛べるような特殊能力まで付加しようというのだから、全く持ってゆるくないどころか、
押し付けがましいのもいいところだ!と。これには日本がよく言われる、コンセンサス社会だと
いうことが関連しているだろう。要は空気を読め!的な社会形成があらゆる場でなされている。
大多数の合意をあまりに求めたがる傾向が強いのだ。できるだけ反発をあびないように、
敷かれたレールに沿うように沿うようにと、道を踏み外さないことをやりたがるし、求めすぎる。
それはアニメにおいても、どこか型にはまった女の子が多く表現されていることからも見て取れる。
女の子が集まれば過度に純粋であることを求めるし、ほのぼのとした青春ライフを送らせたがる。
それがオタク的な女の子ならばなおさら受けがいい。オタクネタが放り込めるからだ。
類型的なパターンの連続で、皆ががんじがらめで息苦しくなってきて、もういっそのこと
普通の女の子でも空でも飛ばせちゃえ~!ってな表現でもさせようものなら、何やってんだコイツ?と
何で急に空飛ぶんだよ?と何で分裂するんだよ?とちゃんとリアクションもとれよ!と過剰に
あるべきパターン、反応を求めたがるものだ。アニメだからこそ超能力は出来る表現だし、
やりやすい表現だ。だから女の子は空から降ってきて男の子と出会う。お城も空中に浮かんで
いるし、歩きだってする。ほうきで空飛べる魔女が運送業やってたっておかしくはない。それが
受け入れられるのは、その作品が、作っている会社が、人物が、大多数による一般的な
合意形成により、大いに受け入れられているからだろう。
夏色キセキの女の子たちが受け入れられるかどうか、それはお石様にお願いするよりは、
日々生きて汗する女の子の姿をどう魅力的に表すかにかかっている。汗はかけばかくほどいい。
大量の汗の発散はカタルシスを表すものだ。そこで夏海ちゃんのお風呂シーンも必要になって
くるし、何度も何度もお風呂に入ることも、汗を洗い流すためには必要な演出となるのだ。終。
ちりばめた彼女らの姿は、何気ない日常の一コマにおいても輝きをはなつ。それは青春の輝き
だから。限られた僅かな期間だから輝く。青春の汗はきっと虹色、イイ匂いがする。
みんなで遊んだ思い出は永久に色褪せることはない。
いろんな経験をすること、恥ずかしい体験や、悔しい思い、時には思春期特有の不思議な感覚も
味わいながら女の子たちは成長してゆく。そう、それこそがキセキ。どんな日常だって、どんな
一日だって、二度とはやってこない掛けがえのない日々。取り返しがつかない感覚は青春してる
からなんだ、あの体験はキセキみたいだったって、あの夏はまるでキセキのような夏だったねって、
いつの日か、思うようになるのかな?
~夏色キセキ~
この物語に出てくる女の子たちには、画面から浮き立つような妙にリアルな質感がある。
それは彼女らが、お願いすれば空だって飛べたり、心が入れ替わったり、分裂しちゃったり
するような特殊な能力を発揮するからか?いや違う、彼女らはそんな特殊な境遇を何ら意に介す
こともなく、日々自分たちの生きている青春に邁進しているから。実のところ、地に足着いた
女の子たちの生き生きとした日常が描写されているからこそ、等身大の中学生女子が、
汗して日々を奮闘している姿が描かれているからこそ、夏色キセキの女の子たちは魅力的に
映るのだろう。
しばしばこういった女の子や男の子がたむろうことがメインになってくる話では、特に何もせず
ゆる~い日常が描かれることも多い。だから向き合うべき現実を想起させるような、親や恋愛や
貧困や労働などの表現は極力避けるのだろう。とにかくカワイイ女の子たちのきゃぴきゃぴとした
姿を、愛玩動物のように楽しめればいいと。一見夏色キセキも、そのようなまったりとした
青春ライフが送られていくような作品にも思える。だがこの作品の女の子たちは、部活に
勤しんでいたり、親のお手伝いをしていたり、勉強したり恋したり、意外にゆるくもない、
いそがしくまともな青春ライフを送っていて、それが夏で大量にかく汗でも表現されており、
女の子たちのリアルな質感も高まっているのだろう。
だからこそ、まぶしく映りすぎるからこそ、こんなまっとうに汗を流し青春する女の子の姿は
受け入れがたい部分もあるだろう。アニメではアピールする積極的女子はどこか引いた目でも
見られやすい。ましてやそんなあるべき等身大女の子の姿を描いておきながら、
空まで飛べるような特殊能力まで付加しようというのだから、全く持ってゆるくないどころか、
押し付けがましいのもいいところだ!と。これには日本がよく言われる、コンセンサス社会だと
いうことが関連しているだろう。要は空気を読め!的な社会形成があらゆる場でなされている。
大多数の合意をあまりに求めたがる傾向が強いのだ。できるだけ反発をあびないように、
敷かれたレールに沿うように沿うようにと、道を踏み外さないことをやりたがるし、求めすぎる。
それはアニメにおいても、どこか型にはまった女の子が多く表現されていることからも見て取れる。
女の子が集まれば過度に純粋であることを求めるし、ほのぼのとした青春ライフを送らせたがる。
それがオタク的な女の子ならばなおさら受けがいい。オタクネタが放り込めるからだ。
類型的なパターンの連続で、皆ががんじがらめで息苦しくなってきて、もういっそのこと
普通の女の子でも空でも飛ばせちゃえ~!ってな表現でもさせようものなら、何やってんだコイツ?と
何で急に空飛ぶんだよ?と何で分裂するんだよ?とちゃんとリアクションもとれよ!と過剰に
あるべきパターン、反応を求めたがるものだ。アニメだからこそ超能力は出来る表現だし、
やりやすい表現だ。だから女の子は空から降ってきて男の子と出会う。お城も空中に浮かんで
いるし、歩きだってする。ほうきで空飛べる魔女が運送業やってたっておかしくはない。それが
受け入れられるのは、その作品が、作っている会社が、人物が、大多数による一般的な
合意形成により、大いに受け入れられているからだろう。
夏色キセキの女の子たちが受け入れられるかどうか、それはお石様にお願いするよりは、
日々生きて汗する女の子の姿をどう魅力的に表すかにかかっている。汗はかけばかくほどいい。
大量の汗の発散はカタルシスを表すものだ。そこで夏海ちゃんのお風呂シーンも必要になって
くるし、何度も何度もお風呂に入ることも、汗を洗い流すためには必要な演出となるのだ。終。
白子のパンすけ [アニメ 感想]
結果の出ているスポーツをどう楽しもうか?既にスコアがはっきりしているゲームの、一体
どこに注目して楽しめばいいのか?
黒子のバスケ、それはジャンプではスラムダンク以来のアニメ化までのヒットに至った
バスケ漫画である。日本の部活動ではバスケは非常にメジャーであり、野球・サッカーに次ぐぐらい、
いや、実際はそれら以上に親しんでいる人数自体は多いのではないか?と思えるほどの、
バスケは言わずと知れた人気スポーツなのだ。だから漫画の題材としてバスケがしばしば選ばれる
ことにも納得できる。バスケやってる姿はクールに写る。だがいかんせんそれだけの若い層の
競技人口を抱えながら、その後の受け皿が少ない。野球やサッカーのメジャースポーツには、
その後の目指すべきプロリーグの道があるのだが、バスケにはそれがない。一応昨今の
事情としてはプロとしてのBJリーグも出来たものの、他方、あくまで企業活動として活動する
旧来の日本リーグの存在もあり、この間の関係性もあまりよろしくない。本当はこの両者が統一し、
日本内で最高峰と呼べる選手を集めた、どっしりとしたプロリーグを設立し、多数いる若者
バスケットブレーヤーの目標を作ってあげるべきだろう。そうしなければキセキの世代という
逸材集団だって宝の持ち腐れ、キセキでも何でもなく、うずもれた世代に過ぎなくなるのだ。
現状のバスケプレーヤー達が思い描くであろう漠然とした目標、それはNBAだろう。
だが現状はそこまでの道があまりに遠すぎる。ただでさえバスケは体格に劣る日本人向けではない
という思いが若者バスケプレーヤーに劣等感として蔓延していることも否定できない。ハナっから
黒人や白人たちにバスケで勝てるわけがない。最高峰アメリカNBAなんて観てしまうと余計そう
思う。今部活でやっているのはあくまで楽しいからでお遊びに過ぎず、この後バスケで生きて
いこうなんて気持ちはさらさら無い。このような想いを若者に抱かせてしまっているなら日本人
NBAプレーヤーはなかなか出てこないだろう。例外的に非常にアグレッシブでチャレンジ精神を持ち
技能もある選手で、かつて日本人NBA選手もいるにはいた。だがやはりあらゆるハンデからか
結果活躍は出来なかった。だけれども、決して日本人がNBAで活躍できないかと言えば、そんな
ことは無いと思う。確かに体格的には劣るかもしれない、だが日本人と同じような体格で活躍
している選手だっている、そして同じアジア圏からNBAでプレイしている選手だっている。
これはNBAとあまりに日本国内のリーグとの格差を作りすぎてしまっていることに原因がある。
国内でもまとまらず、最高の環境でプレイできない中、自分たちの置かれた立ち位置も定まらずに、
そこで活躍していたとしても、そこからステップアップして次へ!という目標はなかなか描きにくい。
もし日本国内で最高峰の選手たちが集まる統一したプロリーグの存在があって、そこにNBAの
レヴェルに近い海外選手も加わって、日々揉まれる環境があったならば、きっと観られる意識の中で
質の高いプレイが継続して出来る選手も出てくることだろうし、自身を持って次のステップへの
展望も開けやすい。現状のバスケと似たような環境にあったサッカー界が、Jリーグという
プロリーグが出来て以降20年ほど経って、今やW杯に出ることも当たり前になってきて、
当たり前の様に若手Jリーガーが海外へと進出して、活躍しているのはいい見本になるだろう。
まずは出来ないという意識を変えることから始まる。
黒子のバスケには、そんな意識を変えてもらいたい。現状キセキの世代なんてこじんまりとした
ことをやっているが、そんなもんプレイしたうえで人それぞれに感じるもので、妙な劣等感を
押し付けるようなレッテルを貼るべきではない。事実未だキセキらしいものは何一つキセキの世代
から見せてもらっていない。それぞれが才能を惜しまず努力したメンツが集まることがキセキなので
あり、ただ才能を持て余し気味にするのがキセキなわけがない。黒子は影が薄いことをプレイに
生かしているが、それは姑息なスタイルであり、真のバスケ好きが取るべき戦法ではない。
気付かれていないからスティールが出来たり、パスが通せたりするのはバスケ好きと自認して
いる者の姿勢としてはどうだろうか?それは一人だけ孤立してバスケしている気分にもなりかね
ないのでは?そのような影が薄い特性はどちらかといえばエロ方面に役立つ能力であり、
エロマンガの主人公にこそ付けたいキセキの能力である。そして相田リコに対して発揮するのが良し。
相田リコはとりわけ魅力的な女性キャラにも思えなかったのだが、不思議とアニメとなって喋って、
動きが出てくると、艶が出てくる、非常に色っぽいキャラに見えてくる。特にスカートから太ももまわり。
これぞアニメになった真価、黒子のバスケはバスケシーンの白熱した動きの良さは見ごたえがあるし、
相田のリコの白子のパンすけ目当てで観ても、充分に価値のある作品と仕上がっている。終。
どこに注目して楽しめばいいのか?
黒子のバスケ、それはジャンプではスラムダンク以来のアニメ化までのヒットに至った
バスケ漫画である。日本の部活動ではバスケは非常にメジャーであり、野球・サッカーに次ぐぐらい、
いや、実際はそれら以上に親しんでいる人数自体は多いのではないか?と思えるほどの、
バスケは言わずと知れた人気スポーツなのだ。だから漫画の題材としてバスケがしばしば選ばれる
ことにも納得できる。バスケやってる姿はクールに写る。だがいかんせんそれだけの若い層の
競技人口を抱えながら、その後の受け皿が少ない。野球やサッカーのメジャースポーツには、
その後の目指すべきプロリーグの道があるのだが、バスケにはそれがない。一応昨今の
事情としてはプロとしてのBJリーグも出来たものの、他方、あくまで企業活動として活動する
旧来の日本リーグの存在もあり、この間の関係性もあまりよろしくない。本当はこの両者が統一し、
日本内で最高峰と呼べる選手を集めた、どっしりとしたプロリーグを設立し、多数いる若者
バスケットブレーヤーの目標を作ってあげるべきだろう。そうしなければキセキの世代という
逸材集団だって宝の持ち腐れ、キセキでも何でもなく、うずもれた世代に過ぎなくなるのだ。
現状のバスケプレーヤー達が思い描くであろう漠然とした目標、それはNBAだろう。
だが現状はそこまでの道があまりに遠すぎる。ただでさえバスケは体格に劣る日本人向けではない
という思いが若者バスケプレーヤーに劣等感として蔓延していることも否定できない。ハナっから
黒人や白人たちにバスケで勝てるわけがない。最高峰アメリカNBAなんて観てしまうと余計そう
思う。今部活でやっているのはあくまで楽しいからでお遊びに過ぎず、この後バスケで生きて
いこうなんて気持ちはさらさら無い。このような想いを若者に抱かせてしまっているなら日本人
NBAプレーヤーはなかなか出てこないだろう。例外的に非常にアグレッシブでチャレンジ精神を持ち
技能もある選手で、かつて日本人NBA選手もいるにはいた。だがやはりあらゆるハンデからか
結果活躍は出来なかった。だけれども、決して日本人がNBAで活躍できないかと言えば、そんな
ことは無いと思う。確かに体格的には劣るかもしれない、だが日本人と同じような体格で活躍
している選手だっている、そして同じアジア圏からNBAでプレイしている選手だっている。
これはNBAとあまりに日本国内のリーグとの格差を作りすぎてしまっていることに原因がある。
国内でもまとまらず、最高の環境でプレイできない中、自分たちの置かれた立ち位置も定まらずに、
そこで活躍していたとしても、そこからステップアップして次へ!という目標はなかなか描きにくい。
もし日本国内で最高峰の選手たちが集まる統一したプロリーグの存在があって、そこにNBAの
レヴェルに近い海外選手も加わって、日々揉まれる環境があったならば、きっと観られる意識の中で
質の高いプレイが継続して出来る選手も出てくることだろうし、自身を持って次のステップへの
展望も開けやすい。現状のバスケと似たような環境にあったサッカー界が、Jリーグという
プロリーグが出来て以降20年ほど経って、今やW杯に出ることも当たり前になってきて、
当たり前の様に若手Jリーガーが海外へと進出して、活躍しているのはいい見本になるだろう。
まずは出来ないという意識を変えることから始まる。
黒子のバスケには、そんな意識を変えてもらいたい。現状キセキの世代なんてこじんまりとした
ことをやっているが、そんなもんプレイしたうえで人それぞれに感じるもので、妙な劣等感を
押し付けるようなレッテルを貼るべきではない。事実未だキセキらしいものは何一つキセキの世代
から見せてもらっていない。それぞれが才能を惜しまず努力したメンツが集まることがキセキなので
あり、ただ才能を持て余し気味にするのがキセキなわけがない。黒子は影が薄いことをプレイに
生かしているが、それは姑息なスタイルであり、真のバスケ好きが取るべき戦法ではない。
気付かれていないからスティールが出来たり、パスが通せたりするのはバスケ好きと自認して
いる者の姿勢としてはどうだろうか?それは一人だけ孤立してバスケしている気分にもなりかね
ないのでは?そのような影が薄い特性はどちらかといえばエロ方面に役立つ能力であり、
エロマンガの主人公にこそ付けたいキセキの能力である。そして相田リコに対して発揮するのが良し。
相田リコはとりわけ魅力的な女性キャラにも思えなかったのだが、不思議とアニメとなって喋って、
動きが出てくると、艶が出てくる、非常に色っぽいキャラに見えてくる。特にスカートから太ももまわり。
これぞアニメになった真価、黒子のバスケはバスケシーンの白熱した動きの良さは見ごたえがあるし、
相田のリコの白子のパンすけ目当てで観ても、充分に価値のある作品と仕上がっている。終。
せめて最後の時代は華々しく [ガンダムAGE]
3世代100年に渡る物語のバトンも、何とな~くで繋いできて、いよいよ締めくくりの
3代目へと突入した機動戦士ガンダムAGE。序盤からのあまりに盛り上がりに欠ける内容で、
もしかしたら1クール分くらいの短縮はくらっちゃってるかもしれないが、そのあおりを受けてか
2代目であるアセム編の内容が特にひどかった。もはや2代目は何もやっていなかったと
言っていいほど、特に記憶に残るような出来事やその演出も無く、キャラも掘り下げられず
ただアセムはフリットからガンダムという力と傲慢さの素養だけを受け継ぎ、次世代に
渡しましたよという、ガンダム右から左へと受け流しましたよ的ストーリーにて終了してしまった。
感情表現に乏しく、ただ出来事を並べただけのようなストーリー展開が続き、そのあおりを、
主役のアセム以上に、最もまともに食らってしまった役どころは、ヒロインに当たるロマリーであろう。
1世代目のエミリーと同様シャワーシーンなどの女性らしさを演出させるセクシーカットの欠けらもなく、
ヒロインらしい演出を全くなされないどころか、どこにいるのかも判別できないようなありさまであり、
エミリーとフリット以上に、相手役であり未来の旦那さんのアセムとの想いが通じ合う場面なども
当然のように皆無であった。ロマリーはゼハートという敵方のパイロットにややほの字であった
というのが唯一の感情表現であったと思うのだが、あれには一体どのような意図が込められて
いたのだろうか?その後安直にアセムと結ばれたことが、不可解に感じられてしまうだけのような
気もするのだが・・・つまりこういうことではないか?アセムとロマリーの互いの想いが
通じ合っていない結ばれ方と言うのは、1世代目のユリンのことがあってのフリットと、
片思いでの気持ちが通じ合っていないエミリーとの関係性の逆バージョンであり、気持ちの
すれ違いを意図して盛り込んだ、ということだろう。これは3世代目のキオとウェンディの
関係性に繋がるフリなのではないか?互いの想いはすれ違っていたけど、なし崩し的に
結婚までいった1世代目と2世代目、その後のフリットとエミリーの関係性は、まともに口すらも
聞かない不仲を連想させるものであり、3世代目に入ってからはアセムは行方不明であり、
その影響かロマリーもまだ姿を現していない。このメインの男女間の関係は、100年も何となくで
続いてしまった戦争の方と絡めて、何かしら連想させるために意図した不仲だったのではないか?
結婚して子供まで作ったパートナーであっても、互いの想いが全く通じ合っていないのでは
良好な家庭など築けるはずもない。そしてそんな家族を作り上げた人間だから、そんな人間が
指揮する戦争だから、ただむやみやたらに局地的な戦闘を尿漏れのように垂れ流すばかりで、
さほど憎み合っているとも感じられないのに、お互いに譲歩を見出せるわけもないので、ただ
繋いでしまった。通じ合わない夫婦の関係性と同じように。3世代目までのだらだらは、
意図した無為の演出だったのだろうか?それはキオ編で分かることだ。
まだ2話だが、キオ編に入って明らかに変わっている。少なくとも2世代目までとは違って、
充分観れるものにはなっている。戦闘シーンではこれまでのような人形が水鉄砲でドンパチ
やっているだけのようなぬるい演出ではなく、しっかりと人が命が無残に消えゆくシーンも
描けていて、緊迫ある戦闘演出はもたらされてきている。ディーヴァの乗組員も、それぞれに
キャラ立ちできるように、個性を前面に出した自己紹介が出来ていた。艦長の間の抜けた
ドジっ子キャラもなかなか様になっている。そしてこの女性艦長に至って、初めてこの作品で
色気が感じられる場面があった。それはほんのささいな着替えの際に覗く胸元程度のもの
だったが、確かに色気を盛り込んできたのは良い兆候である。ただエイノアというのが
誰の孫に当たり、七光りなのかの説明が足りない。 多分グルーデックという1世代目の艦長の
孫にあたるのだと思うが、これまでのキャラはほとんどまともな演出をなされてこなかったので
名前をパッと出されたぐらいでは思い出しづらい。
3世代目の主人公キオに至って、ようやくフリットとアセムにあった傲慢な姿勢は消えたようだ。
これまでと同じく、何となくでガンダムに乗る、世襲してしまったことは気にくわないが、
キオの様に超能力に恵まれていて、一人走りすることはあっても、それがあせりからではなく
確かな目論見があってのことならうなずける。キオはどこか達観しているようなところがあり、
その周りにあまり捉われない姿勢が戦争を終わらせるためには必要なのだろうが、フリットに
洗脳を受けているような面はやや気になる。今のフリットは子供時代の延長線上とは全く
捉えられないが、傲慢さは相変わらずのようだ。孫と他の兵士に対する接し方の違いは
軋轢を生みかねない。きっとフリットは死ぬだろう。そこでキオはじいちゃんの死も単なる一人の、
名も無い兵士の尊い犠牲であると、憎しみだけにとらわれず、毅然として、戦争を終結に導くために
正しくふるまえるかがポイントになってくるのだろう。その際アセムもまた出てくるかもしれないが、
死ぬだろう。もしくは回想シーンで死ぬだろう。この憎しみを応酬しあわない姿勢というのが、長きに
渡る戦争を終わらせる上ではカギになってくる。
ヒロインであるウェンディとのキオとの関係性は、これまたややウェンディ側からの一方的な
好意だけのようにも感じてしまうが、現状互いにフラットなものと捉えていいだろう。そして今後は
これまでとは違って、戦争のさなかに恋愛をはぐくむ演出もあることだろうし、ウェンディの
シャワーシーンや色気を出す演出もあるはずだろう。なければこれまでのすれ違いどころか
会話すらほとんどなく、まったく想いが通じ合っていない恋愛表現というのが、何かしら
意図したものではなく、本当にただ単に何もなかったんだなぁというのがバレてしまう。終。
3代目へと突入した機動戦士ガンダムAGE。序盤からのあまりに盛り上がりに欠ける内容で、
もしかしたら1クール分くらいの短縮はくらっちゃってるかもしれないが、そのあおりを受けてか
2代目であるアセム編の内容が特にひどかった。もはや2代目は何もやっていなかったと
言っていいほど、特に記憶に残るような出来事やその演出も無く、キャラも掘り下げられず
ただアセムはフリットからガンダムという力と傲慢さの素養だけを受け継ぎ、次世代に
渡しましたよという、ガンダム右から左へと受け流しましたよ的ストーリーにて終了してしまった。
感情表現に乏しく、ただ出来事を並べただけのようなストーリー展開が続き、そのあおりを、
主役のアセム以上に、最もまともに食らってしまった役どころは、ヒロインに当たるロマリーであろう。
1世代目のエミリーと同様シャワーシーンなどの女性らしさを演出させるセクシーカットの欠けらもなく、
ヒロインらしい演出を全くなされないどころか、どこにいるのかも判別できないようなありさまであり、
エミリーとフリット以上に、相手役であり未来の旦那さんのアセムとの想いが通じ合う場面なども
当然のように皆無であった。ロマリーはゼハートという敵方のパイロットにややほの字であった
というのが唯一の感情表現であったと思うのだが、あれには一体どのような意図が込められて
いたのだろうか?その後安直にアセムと結ばれたことが、不可解に感じられてしまうだけのような
気もするのだが・・・つまりこういうことではないか?アセムとロマリーの互いの想いが
通じ合っていない結ばれ方と言うのは、1世代目のユリンのことがあってのフリットと、
片思いでの気持ちが通じ合っていないエミリーとの関係性の逆バージョンであり、気持ちの
すれ違いを意図して盛り込んだ、ということだろう。これは3世代目のキオとウェンディの
関係性に繋がるフリなのではないか?互いの想いはすれ違っていたけど、なし崩し的に
結婚までいった1世代目と2世代目、その後のフリットとエミリーの関係性は、まともに口すらも
聞かない不仲を連想させるものであり、3世代目に入ってからはアセムは行方不明であり、
その影響かロマリーもまだ姿を現していない。このメインの男女間の関係は、100年も何となくで
続いてしまった戦争の方と絡めて、何かしら連想させるために意図した不仲だったのではないか?
結婚して子供まで作ったパートナーであっても、互いの想いが全く通じ合っていないのでは
良好な家庭など築けるはずもない。そしてそんな家族を作り上げた人間だから、そんな人間が
指揮する戦争だから、ただむやみやたらに局地的な戦闘を尿漏れのように垂れ流すばかりで、
さほど憎み合っているとも感じられないのに、お互いに譲歩を見出せるわけもないので、ただ
繋いでしまった。通じ合わない夫婦の関係性と同じように。3世代目までのだらだらは、
意図した無為の演出だったのだろうか?それはキオ編で分かることだ。
まだ2話だが、キオ編に入って明らかに変わっている。少なくとも2世代目までとは違って、
充分観れるものにはなっている。戦闘シーンではこれまでのような人形が水鉄砲でドンパチ
やっているだけのようなぬるい演出ではなく、しっかりと人が命が無残に消えゆくシーンも
描けていて、緊迫ある戦闘演出はもたらされてきている。ディーヴァの乗組員も、それぞれに
キャラ立ちできるように、個性を前面に出した自己紹介が出来ていた。艦長の間の抜けた
ドジっ子キャラもなかなか様になっている。そしてこの女性艦長に至って、初めてこの作品で
色気が感じられる場面があった。それはほんのささいな着替えの際に覗く胸元程度のもの
だったが、確かに色気を盛り込んできたのは良い兆候である。ただエイノアというのが
誰の孫に当たり、七光りなのかの説明が足りない。 多分グルーデックという1世代目の艦長の
孫にあたるのだと思うが、これまでのキャラはほとんどまともな演出をなされてこなかったので
名前をパッと出されたぐらいでは思い出しづらい。
3世代目の主人公キオに至って、ようやくフリットとアセムにあった傲慢な姿勢は消えたようだ。
これまでと同じく、何となくでガンダムに乗る、世襲してしまったことは気にくわないが、
キオの様に超能力に恵まれていて、一人走りすることはあっても、それがあせりからではなく
確かな目論見があってのことならうなずける。キオはどこか達観しているようなところがあり、
その周りにあまり捉われない姿勢が戦争を終わらせるためには必要なのだろうが、フリットに
洗脳を受けているような面はやや気になる。今のフリットは子供時代の延長線上とは全く
捉えられないが、傲慢さは相変わらずのようだ。孫と他の兵士に対する接し方の違いは
軋轢を生みかねない。きっとフリットは死ぬだろう。そこでキオはじいちゃんの死も単なる一人の、
名も無い兵士の尊い犠牲であると、憎しみだけにとらわれず、毅然として、戦争を終結に導くために
正しくふるまえるかがポイントになってくるのだろう。その際アセムもまた出てくるかもしれないが、
死ぬだろう。もしくは回想シーンで死ぬだろう。この憎しみを応酬しあわない姿勢というのが、長きに
渡る戦争を終わらせる上ではカギになってくる。
ヒロインであるウェンディとのキオとの関係性は、これまたややウェンディ側からの一方的な
好意だけのようにも感じてしまうが、現状互いにフラットなものと捉えていいだろう。そして今後は
これまでとは違って、戦争のさなかに恋愛をはぐくむ演出もあることだろうし、ウェンディの
シャワーシーンや色気を出す演出もあるはずだろう。なければこれまでのすれ違いどころか
会話すらほとんどなく、まったく想いが通じ合っていない恋愛表現というのが、何かしら
意図したものではなく、本当にただ単に何もなかったんだなぁというのがバレてしまう。終。
サーヤの胸は恋に弾んでいるのか? [スケットダンス]
人気漫画原作をアニメ化する際には、それがあまりに抜け目ない出来でしっかりと漫画として
仕上がったものであったなら、いざそれをアニメ化する際には、作り手としてはこれは一体
どこまで冒険していいものなのか、ただ手堅い作り方をしてればいいのか?多少難しい面も
あるのではないか?元々人気があるものなのだから、ただ忠実にアニメにしていればいいという
考え方もあるだろうが、それではいかにも面白みがない。アニメにした意義が問われる。
漫画を読んで知っていても尚、その作品をアニメで観てみたいと、観た甲斐があったと思われる
ような、アニメならではの落としどころを盛り込んだ作品に仕上がっているのが好ましい。
放送開始当初こそやや堅さがあったTVアニメの”スケットダンス”だが、さすがにもう1年も
やっているので徐々にアニメならではの動きや表現も見られるようになってきている。そして
作品内にやってやろうよ!という熱気もどことなく感じられるようになってきた気がしないでもない。
それは2年目から遂に満を持して、安形サーヤという娘を投入し、その娘のアニメだからこそ
出来る動かせ方をしていることからも見て取れる。
おっぱいが揺れること、これはアニメならではの、ありがちだがうれしい表現であり、
胸が大きな娘が出てくるアニメなら是が非でもやるべき表現だし、やらなかったらアニメとしては
機能出来ていない。
安形紗綾ことサーヤの胸はよく揺れる。しばしばアニメで胸が揺れることに関して、特に
スケダンの様に夕方の放送ともなると、このようなやや下目線を助長するような演出に対しては、
やれ卑猥だの、揺らす必要があるのか?だの、ボールが入っているのか?だの、子供と一緒に
観られないだの、おばあちゃんとしか観られないだの、おじいちゃんがいないだの、あっいただの、
お父さんとお母さんが仲悪くなったのはスケットダンスのせいだー!だの言って、胸揺れが苦情の
対象となることを恐れて敬遠する作品もあることだろう。だが作中胸が極度に大きな娘が出てきたの
だったら、それを揺らすということはむしろ当たり前のことであり、アニメの作り手としては
真摯な姿勢だと評価すべきことではないだろうか?
サーヤの胸の揺れ方は、ただエロい目線を惹きつけるためというのではなく、ボッスンに恋した
一人の女の子の揺れ動く心情を、その胸の揺れ方で表しているのでは?という風に見て取れる。
だからかサーヤの胸の揺れ方は、いっつも同じ、1,2,3のテンポで揺れる。恋のドキドキを
高鳴る鼓動にて表現しようと挑戦しすぎたせいか、どことなく胸の形もおかしく見える。
制服のシャツの上から見て取れる範囲だが、サーヤの胸はいささか筋肉質すぎる。端的に言って
胸がごっついのだ。本来女性の胸はというと柔らかいはずで、絵にするならばその柔らかさを
より強調すべきであり、だからこそ揺れる表現への必然性と興奮も高まるのだ。
元々原作からも感じていたことだが、サーヤは胸と顔のバランスが合っていない。そして
胸を大きく描こうとするあまり胸がとてつもなくごっつく筋肉で満ちたものになってしまっている。
この胸はどこかで見た、そうだ女子レスリングの浜口京子のモノに近いのだ。それか吉田の方。
サーヤの胸は少し上方向に張り出しすぎたのだろう。女性ならもっと巨乳な娘なら尚もっと、
たるみを表現すべきなのだ。サーヤの胸はもっと下にたれてるぐらいの方が良い。でなければ
揺れることへの必然性が出てこない。おそらく現状のサーヤの胸ではゴツゴツしすぎて
揺れる余地があまり無いのではないか?だからいっつも1,2,3の3拍子で揺れていたのだ。
本当の胸の揺れ方なら1,2,3の後に4まで必要なのだから、1,2の~でもいい、間を入れて
3!という感じの揺らし方ならばまだあり得るな~と納得もできたはずだ。
今のサーヤの胸は恋心を表現するためのツールとしては有効に機能しているのだろうが、
それでは女性の象徴である胸を単に道具として使用してしまっていることともなり、サーヤの胸が
女性的な胸だと感じ取れない大きな原因ともなっていたのだろう。
サーヤの胸はシャツのパンパン具合でデカさ強調するのではなく、1サイズ上のシャツを着せる
ぐらいのゆとりをもたせ、たるみが感じられるぐらいの方が揺れることへの自然さと、サーヤの
女性らしさも表現できるのかもしれない。終。
仕上がったものであったなら、いざそれをアニメ化する際には、作り手としてはこれは一体
どこまで冒険していいものなのか、ただ手堅い作り方をしてればいいのか?多少難しい面も
あるのではないか?元々人気があるものなのだから、ただ忠実にアニメにしていればいいという
考え方もあるだろうが、それではいかにも面白みがない。アニメにした意義が問われる。
漫画を読んで知っていても尚、その作品をアニメで観てみたいと、観た甲斐があったと思われる
ような、アニメならではの落としどころを盛り込んだ作品に仕上がっているのが好ましい。
放送開始当初こそやや堅さがあったTVアニメの”スケットダンス”だが、さすがにもう1年も
やっているので徐々にアニメならではの動きや表現も見られるようになってきている。そして
作品内にやってやろうよ!という熱気もどことなく感じられるようになってきた気がしないでもない。
それは2年目から遂に満を持して、安形サーヤという娘を投入し、その娘のアニメだからこそ
出来る動かせ方をしていることからも見て取れる。
おっぱいが揺れること、これはアニメならではの、ありがちだがうれしい表現であり、
胸が大きな娘が出てくるアニメなら是が非でもやるべき表現だし、やらなかったらアニメとしては
機能出来ていない。
安形紗綾ことサーヤの胸はよく揺れる。しばしばアニメで胸が揺れることに関して、特に
スケダンの様に夕方の放送ともなると、このようなやや下目線を助長するような演出に対しては、
やれ卑猥だの、揺らす必要があるのか?だの、ボールが入っているのか?だの、子供と一緒に
観られないだの、おばあちゃんとしか観られないだの、おじいちゃんがいないだの、あっいただの、
お父さんとお母さんが仲悪くなったのはスケットダンスのせいだー!だの言って、胸揺れが苦情の
対象となることを恐れて敬遠する作品もあることだろう。だが作中胸が極度に大きな娘が出てきたの
だったら、それを揺らすということはむしろ当たり前のことであり、アニメの作り手としては
真摯な姿勢だと評価すべきことではないだろうか?
サーヤの胸の揺れ方は、ただエロい目線を惹きつけるためというのではなく、ボッスンに恋した
一人の女の子の揺れ動く心情を、その胸の揺れ方で表しているのでは?という風に見て取れる。
だからかサーヤの胸の揺れ方は、いっつも同じ、1,2,3のテンポで揺れる。恋のドキドキを
高鳴る鼓動にて表現しようと挑戦しすぎたせいか、どことなく胸の形もおかしく見える。
制服のシャツの上から見て取れる範囲だが、サーヤの胸はいささか筋肉質すぎる。端的に言って
胸がごっついのだ。本来女性の胸はというと柔らかいはずで、絵にするならばその柔らかさを
より強調すべきであり、だからこそ揺れる表現への必然性と興奮も高まるのだ。
元々原作からも感じていたことだが、サーヤは胸と顔のバランスが合っていない。そして
胸を大きく描こうとするあまり胸がとてつもなくごっつく筋肉で満ちたものになってしまっている。
この胸はどこかで見た、そうだ女子レスリングの浜口京子のモノに近いのだ。それか吉田の方。
サーヤの胸は少し上方向に張り出しすぎたのだろう。女性ならもっと巨乳な娘なら尚もっと、
たるみを表現すべきなのだ。サーヤの胸はもっと下にたれてるぐらいの方が良い。でなければ
揺れることへの必然性が出てこない。おそらく現状のサーヤの胸ではゴツゴツしすぎて
揺れる余地があまり無いのではないか?だからいっつも1,2,3の3拍子で揺れていたのだ。
本当の胸の揺れ方なら1,2,3の後に4まで必要なのだから、1,2の~でもいい、間を入れて
3!という感じの揺らし方ならばまだあり得るな~と納得もできたはずだ。
今のサーヤの胸は恋心を表現するためのツールとしては有効に機能しているのだろうが、
それでは女性の象徴である胸を単に道具として使用してしまっていることともなり、サーヤの胸が
女性的な胸だと感じ取れない大きな原因ともなっていたのだろう。
サーヤの胸はシャツのパンパン具合でデカさ強調するのではなく、1サイズ上のシャツを着せる
ぐらいのゆとりをもたせ、たるみが感じられるぐらいの方が揺れることへの自然さと、サーヤの
女性らしさも表現できるのかもしれない。終。
ノイ魂が戻ってきたら [ノイタミナ]
今季もまた例のごとく多数のアニメ作品が放送されているが、こんなに力作揃いなのは
久方ぶりのことではないだろうか?中でもこれまた久々にノイタミナ枠の作品に勢いが感じられる。
ノイタミナと言えばこれまでも意欲的な良作をいくつも投入してきた8チャン深夜のアニメ枠であるが、
ここ最近はどうにも不調と感じてしまう作品も多かった。放送されている作品自体のポテンシャルは
高いと感じられるものの、ストーリー面にバランス感覚を逸してかなりのブレを感じるものが多く、
感情を移入して観られるような作品は乏しかった。しかし現在放送中の二作品は以前のような
ノイタミナらしいドラマやテーマ性をが、作品内に確かな鼓動の息吹として戻ってきたと
感じられるような勢いのある作品となっている。坂道のアポロン、そしてつり球。
特につり球の方により勢いが感じられる。
坂道のアポロンは、最近ありがちな一昔前の舞台設定をしているが、これはいつどんな時代で
あっても人々の関心を惹く人物やストーリーというのものはあまり変わらず、昔の設定にした
方が、よりキャラクターたちの想いが視聴者にストレートに届きやすい。と考えたためだろうか?
言い方を変えれば、どんなに時代を経ても素晴らしいものは素晴らしいということを、音楽や
恋愛を通して伝えたいのだろう。
時代に合わせて登場キャラクター達もやや古臭く、分かりやすい人物設計となっているものの、
その真っすぐさは確かに魅力的に映る。そして物語の軸に据えたジャズセッションシーンは
素晴らしい出来であり、これだけでも一見の価値はあろう。これを実写ドラマでやったなら、
単にベタな青春ドラマに映り、古臭い話だなぁーと感じるかもしれないが、この、単純な話は
アニメでやる上においては充分に栄える。律ちゃんの方言の出し方にも心くすぐられるものが
あって良い。演奏シーンなども出来る限り質を高めて作られているのが分かりやすく伝わって
くるために、話、キャラクター含めて非常に受け入れやすく好感のもてる作品となっている。
このベタな青春ドラマは近頃方針がややブレつつあったノイタミナ枠を、今一度原点に
復帰させるために打たれた指針となる作品ではないか?
そしてもう一つのつり球であるが、打って変わってこちらは、作品のベースにゆる~いものを
漂わせたコメディ風味の作品だが、実のところこのつり球の方がノイタミナらしさが感じられる
先鋭的な作品である。
男の子4人組の話というと、他にも現在第2期が放送中の”君と僕”があり、コレもなかなかの
良い出来に仕上がっている作品なのだが、そこをさらに上回ってつり球は良く出来た作品だと
思える。それはアニメだから表現出来る、まっとうな笑いに、真摯に挑戦している姿勢が感じ
られるからだ。昨今のアニメから垣間見られる笑いというのは、どうにもオタクに媚びた、
オタクだけに通ずるようなパロディめいたセリフをただ吐かせるだけというものが多くいようで、
それはお笑い芸人にもありがちな楽屋ネタのようなものであり、安易すぎて笑いの根底に
あるペーソスは感じない。パロディも笑いの一つの形ではあっても、それはまず素人が
辿る手段の一つであって、プロからすれば逃げの一手に過ぎず、決して挑戦的な笑いの
表現だとは捉えられまい。その点つり球ではキャラクターそれぞれが持つ個性を発揮させた
絡み合いや、アニメならではの動きや表情で魅せる笑いを追求しており、おかしさや
楽しさが画面を通して純粋に伝わりやすいものになっているのが良い。
坂道とつり球両作品に共通するのは、それぞれに出てくるキャラ達が、日々生きていく上での
悩みや行き詰まりをしっかりと表し、直面しながらも、そこに浸ってただ何もしないというのではなく、
不器用ながらも他者と関わって、恥や羞恥にまみれていく中で、自分らしさを得て、情熱を
存分に発揮していけるところだ。そしてアニメとしてしっかり動きで表せている部分が何よりも
良い。終。
久方ぶりのことではないだろうか?中でもこれまた久々にノイタミナ枠の作品に勢いが感じられる。
ノイタミナと言えばこれまでも意欲的な良作をいくつも投入してきた8チャン深夜のアニメ枠であるが、
ここ最近はどうにも不調と感じてしまう作品も多かった。放送されている作品自体のポテンシャルは
高いと感じられるものの、ストーリー面にバランス感覚を逸してかなりのブレを感じるものが多く、
感情を移入して観られるような作品は乏しかった。しかし現在放送中の二作品は以前のような
ノイタミナらしいドラマやテーマ性をが、作品内に確かな鼓動の息吹として戻ってきたと
感じられるような勢いのある作品となっている。坂道のアポロン、そしてつり球。
特につり球の方により勢いが感じられる。
坂道のアポロンは、最近ありがちな一昔前の舞台設定をしているが、これはいつどんな時代で
あっても人々の関心を惹く人物やストーリーというのものはあまり変わらず、昔の設定にした
方が、よりキャラクターたちの想いが視聴者にストレートに届きやすい。と考えたためだろうか?
言い方を変えれば、どんなに時代を経ても素晴らしいものは素晴らしいということを、音楽や
恋愛を通して伝えたいのだろう。
時代に合わせて登場キャラクター達もやや古臭く、分かりやすい人物設計となっているものの、
その真っすぐさは確かに魅力的に映る。そして物語の軸に据えたジャズセッションシーンは
素晴らしい出来であり、これだけでも一見の価値はあろう。これを実写ドラマでやったなら、
単にベタな青春ドラマに映り、古臭い話だなぁーと感じるかもしれないが、この、単純な話は
アニメでやる上においては充分に栄える。律ちゃんの方言の出し方にも心くすぐられるものが
あって良い。演奏シーンなども出来る限り質を高めて作られているのが分かりやすく伝わって
くるために、話、キャラクター含めて非常に受け入れやすく好感のもてる作品となっている。
このベタな青春ドラマは近頃方針がややブレつつあったノイタミナ枠を、今一度原点に
復帰させるために打たれた指針となる作品ではないか?
そしてもう一つのつり球であるが、打って変わってこちらは、作品のベースにゆる~いものを
漂わせたコメディ風味の作品だが、実のところこのつり球の方がノイタミナらしさが感じられる
先鋭的な作品である。
男の子4人組の話というと、他にも現在第2期が放送中の”君と僕”があり、コレもなかなかの
良い出来に仕上がっている作品なのだが、そこをさらに上回ってつり球は良く出来た作品だと
思える。それはアニメだから表現出来る、まっとうな笑いに、真摯に挑戦している姿勢が感じ
られるからだ。昨今のアニメから垣間見られる笑いというのは、どうにもオタクに媚びた、
オタクだけに通ずるようなパロディめいたセリフをただ吐かせるだけというものが多くいようで、
それはお笑い芸人にもありがちな楽屋ネタのようなものであり、安易すぎて笑いの根底に
あるペーソスは感じない。パロディも笑いの一つの形ではあっても、それはまず素人が
辿る手段の一つであって、プロからすれば逃げの一手に過ぎず、決して挑戦的な笑いの
表現だとは捉えられまい。その点つり球ではキャラクターそれぞれが持つ個性を発揮させた
絡み合いや、アニメならではの動きや表情で魅せる笑いを追求しており、おかしさや
楽しさが画面を通して純粋に伝わりやすいものになっているのが良い。
坂道とつり球両作品に共通するのは、それぞれに出てくるキャラ達が、日々生きていく上での
悩みや行き詰まりをしっかりと表し、直面しながらも、そこに浸ってただ何もしないというのではなく、
不器用ながらも他者と関わって、恥や羞恥にまみれていく中で、自分らしさを得て、情熱を
存分に発揮していけるところだ。そしてアニメとしてしっかり動きで表せている部分が何よりも
良い。終。
ルクール看板娘よ、パンつくれ! [アニメ 講評]
どこか穏やかな時間が流れる島で暮らし、パン屋を営み生計を立てている少年少女たち、
そこで作られる絶品のパンが取り持つ島の住民たちとの触れ合いは、昨今失われつつある
人情や思いやりの情をふんだんに観ることが出来て、ほのぼのとほほえましい光景である。
シャイニングハーツ、その名も幸せのパン。主人公が丹精込めて練り上げたパン粉から
焼き上げられたパンは、誰ものほっぺたを落とし、幸せでふくらましてくれる。もしこの作品に
第2期があるならば、幸せのパン2(パンツー)となるが、おそらく無い。
物語の序盤では、主人公と経緯はよく分からないが彼に取り付いている3人の女の子が、
至って癖に乏しい島の住人を相手に、パンをただ豪勢に売りさばくだけという取りとめのない
話に終始していることから、そしてこのシャイニングハーツという作品がゲーム原作であること
からしても、もしかしたらその線にありがちな平々凡々として特に中身のない陳腐なストーリー
展開の話なのではないか?と早々に見下して観ている人もいるかもしれないが、果たして
そうだろうか?物語はまだ2,3話終わった程度である。これが10話20話超えても尚、
少年がパンをこねて、女の子3人と売りさばいているだけの話だったなら、どんな誹りも
免れえないだろう。物語は3話の後半に至って、島に少女が流れ着いたところから
急展開を迎える予感をかもし出してきたではないか?この冗長感のあった3話までは来たるべき
怒涛の展開に向けての前フリであったと捉えたい。つまりパンをこねて焼きつくり、それを豊満の
ボディの少女たちと売りさばくことには何らかの意図があったのだ。島の住民たちの異常な
おおらかさにも意図があるのだろう。島民それぞれが直接的な労働や生産物を介した
物々交換により生計を立てていそうであるが、貨幣経済も一応浸透していることも、何らかの
意味があるのだろう。その貨幣はおそらく島の外のからもたらされたものであり、外界とも
しっかり交流が持っていることは良いことである。島に流れ着いた謎の少女きっかけとして
これまた流れ着いたキャラであるらしい主人公もそこに絡み、おそらく外界との軋轢が
起こり、物語はバトル方面にシフトしていくのだろう。
この作品は、幸せのパンとサブタイトルに名付けているぐらいあって、パンという食べ物に
非常に大きな意味を持たせた変わった作品である。パンをテーマにした作品という点では、
かなり前に焼き立てジャパンというダジャレタイトルの作品があったが、おそらくそれ以来
二作目だろう。
さてこのシャイニングハーツの中で描かれている”パン”の意味について考えてみたい。
この作品に出てくるパンというのはどれをとっても大型棒状のフランスパンの様なパンである。
よってこのパンの描き方はある種男根崇拝の一つの表れではないかと思える。その根拠には、
この作品のパンをこねて作っている工程全てを担当しているのは、主人公の男の子一人の
ようであり、その周りには3人もの似通ったボディスタイルを持つ女の子が、何故か愛想よく
寄り添って見守ってくれている。男根を眺め、祈りを捧げる豊満な女性という儀式的なものとして
捉えることが出来る。外界との一定の距離を保っていて、一夫多妻制をとる島では、こうして
意中の男性そのものを男根自体、象徴的なモノとして、複数の女性で囲う習性が
しばしば垣間見られる。この3人のパン屋の女の子がどの娘も豊満であり、胸や太ももを
ぱっくり開いた胸元やミニスカートでことさら性を強調した衣服を着ていることも見逃せない。
牧歌的な島の暮らしからすれば、この娘たちのスタイルはかなり浮いて見えるだろう、
シスター風の衣装でいながら、パンツがはみ出そうな異常なミニスカートだったり、
普通の村娘Aみたいな服jであるのに、胸元が大きくさらけ出されていたり、それは何のためか?
というなら、何のことは無い、ただのサービスである。主要人物ヒロインに当たるような女の子は
どの娘も惹くものが強いように性の部分は、過剰に強調やりすぎたかな~?と思えるぐらの方が
作り手はやりきった感があって安心できるものだ。作品内の世界観やバランスなど
知ったこっちゃない。少しでも人気が出るように、安易なキャラ付をした方がいいのだ。それが
異常に発達した胸や、気持ち悪いぐらい皆が仲良く、優しいセリフばかりをはく性質、
主人公がただええカッコしたがりの正義感丸出しのマジメということに表れている。
そしてパン屋を経営していることもまた、創作物の世界においては良い人ポイントが上がる要素
なのだ。これが漬物や味噌を漬けているようではダメなのだ。何がダメなのかと言われても
よく分からないが、要は締まらないということだ。パンの方が何となく格好が付く程度のものだろう。
パンツ製造していたならもちろんアウトだ。ただのエロゲーのアニメになる。本能的には
幸せのパンツの方が観てみたいが、作品的にはアウトである。ルクールの3人もの、まあ
言ってしまえばアホである看板娘であっても、パンを売るよりはパンツを売りにしてしまえば、
それなりに絵になりそうな気がするが、作品的には話が展開していかずアウトである。
そこで作られる絶品のパンが取り持つ島の住民たちとの触れ合いは、昨今失われつつある
人情や思いやりの情をふんだんに観ることが出来て、ほのぼのとほほえましい光景である。
シャイニングハーツ、その名も幸せのパン。主人公が丹精込めて練り上げたパン粉から
焼き上げられたパンは、誰ものほっぺたを落とし、幸せでふくらましてくれる。もしこの作品に
第2期があるならば、幸せのパン2(パンツー)となるが、おそらく無い。
物語の序盤では、主人公と経緯はよく分からないが彼に取り付いている3人の女の子が、
至って癖に乏しい島の住人を相手に、パンをただ豪勢に売りさばくだけという取りとめのない
話に終始していることから、そしてこのシャイニングハーツという作品がゲーム原作であること
からしても、もしかしたらその線にありがちな平々凡々として特に中身のない陳腐なストーリー
展開の話なのではないか?と早々に見下して観ている人もいるかもしれないが、果たして
そうだろうか?物語はまだ2,3話終わった程度である。これが10話20話超えても尚、
少年がパンをこねて、女の子3人と売りさばいているだけの話だったなら、どんな誹りも
免れえないだろう。物語は3話の後半に至って、島に少女が流れ着いたところから
急展開を迎える予感をかもし出してきたではないか?この冗長感のあった3話までは来たるべき
怒涛の展開に向けての前フリであったと捉えたい。つまりパンをこねて焼きつくり、それを豊満の
ボディの少女たちと売りさばくことには何らかの意図があったのだ。島の住民たちの異常な
おおらかさにも意図があるのだろう。島民それぞれが直接的な労働や生産物を介した
物々交換により生計を立てていそうであるが、貨幣経済も一応浸透していることも、何らかの
意味があるのだろう。その貨幣はおそらく島の外のからもたらされたものであり、外界とも
しっかり交流が持っていることは良いことである。島に流れ着いた謎の少女きっかけとして
これまた流れ着いたキャラであるらしい主人公もそこに絡み、おそらく外界との軋轢が
起こり、物語はバトル方面にシフトしていくのだろう。
この作品は、幸せのパンとサブタイトルに名付けているぐらいあって、パンという食べ物に
非常に大きな意味を持たせた変わった作品である。パンをテーマにした作品という点では、
かなり前に焼き立てジャパンというダジャレタイトルの作品があったが、おそらくそれ以来
二作目だろう。
さてこのシャイニングハーツの中で描かれている”パン”の意味について考えてみたい。
この作品に出てくるパンというのはどれをとっても大型棒状のフランスパンの様なパンである。
よってこのパンの描き方はある種男根崇拝の一つの表れではないかと思える。その根拠には、
この作品のパンをこねて作っている工程全てを担当しているのは、主人公の男の子一人の
ようであり、その周りには3人もの似通ったボディスタイルを持つ女の子が、何故か愛想よく
寄り添って見守ってくれている。男根を眺め、祈りを捧げる豊満な女性という儀式的なものとして
捉えることが出来る。外界との一定の距離を保っていて、一夫多妻制をとる島では、こうして
意中の男性そのものを男根自体、象徴的なモノとして、複数の女性で囲う習性が
しばしば垣間見られる。この3人のパン屋の女の子がどの娘も豊満であり、胸や太ももを
ぱっくり開いた胸元やミニスカートでことさら性を強調した衣服を着ていることも見逃せない。
牧歌的な島の暮らしからすれば、この娘たちのスタイルはかなり浮いて見えるだろう、
シスター風の衣装でいながら、パンツがはみ出そうな異常なミニスカートだったり、
普通の村娘Aみたいな服jであるのに、胸元が大きくさらけ出されていたり、それは何のためか?
というなら、何のことは無い、ただのサービスである。主要人物ヒロインに当たるような女の子は
どの娘も惹くものが強いように性の部分は、過剰に強調やりすぎたかな~?と思えるぐらの方が
作り手はやりきった感があって安心できるものだ。作品内の世界観やバランスなど
知ったこっちゃない。少しでも人気が出るように、安易なキャラ付をした方がいいのだ。それが
異常に発達した胸や、気持ち悪いぐらい皆が仲良く、優しいセリフばかりをはく性質、
主人公がただええカッコしたがりの正義感丸出しのマジメということに表れている。
そしてパン屋を経営していることもまた、創作物の世界においては良い人ポイントが上がる要素
なのだ。これが漬物や味噌を漬けているようではダメなのだ。何がダメなのかと言われても
よく分からないが、要は締まらないということだ。パンの方が何となく格好が付く程度のものだろう。
パンツ製造していたならもちろんアウトだ。ただのエロゲーのアニメになる。本能的には
幸せのパンツの方が観てみたいが、作品的にはアウトである。ルクールの3人もの、まあ
言ってしまえばアホである看板娘であっても、パンを売るよりはパンツを売りにしてしまえば、
それなりに絵になりそうな気がするが、作品的には話が展開していかずアウトである。
咲き誇らせる雀女 [アニメ 講評]
同じ卓上競技の類であるが、囲碁や将棋とは違って学校の部活動としてはまず認められない
であろう”麻雀”。それは麻雀が囲碁や将棋と比べれば、よりお遊びとしての側面が強いため
だろう。囲碁や将棋は日々鍛錬を重ねて、熟慮に熟慮を重ねた上での指す一手が勝負を
分けるのに対し、麻雀はいかんせん運の要素が強すぎる。運が勝負を分けるということで、
大人のお遊び、ギャンブルと共に扱われることが多いこともまた、教育の現場で扱うには
似つかわしくなく、部活動などとして認められない原因となっているのだろう。麻雀は、
カジノでのポーカー遊びなどで楽しまれているトランプと同列の遊びであり、トランプ部が
無いのと同様、また麻雀部も存在しえないのだ。
そんな麻雀を、架空の話では部活動として存在させ、それもピチピチの女子高生たちによる、
麻雀にかけた熱き青春ライフとして描いている麻雀アニメ、”咲”という作品がある。
漫画原作であり、現在は第二期に当たる咲~阿知賀編~なるものが放送されていて、
麻雀好きの女子高生たちが集まり麻雀部をつくり、麻雀の全国大会をめざして奮闘する
話が描かれている。
咲という作品をきっかけとして麻雀に親しみを持ってもらい、若い層に麻雀が
普及すれば、ゆくゆくはこの作品の様に麻雀が部活動として認められれ、女子高生たちが
出場する麻雀の全国大会なんかも実際に開かれる日が来るのではないか?と淡い期待を、
している一部の層の人間も、もしかしたらいるかもしれないが、この咲という麻雀アニメを観る限り、
少なくとも麻雀が普及するきっかけにはなるだろうが、麻雀に対するややもするとこれまでのような
穿った見方を払拭するまでの作品にはなっていないと思える。逆に、麻雀に対するあまり
よろしくないイメージをさらに助長することになるのでは?という描写が咲の中では多々観られる。
それは”咲”が、麻雀が持つ楽しさといったものを伝えることよりは、どちらかというと女の子たちの
魅力を前面に押し出した作品作りを重視しているためである。もちろん作品の取っつきやすさとして
カワイイ女の子キャラ達の魅力をまず押し出すのは定跡かもしれないが、その魅力の表し方と
いうのが、かなり卑猥な方面に偏っているように感じる。それはアニメ的によく挙がるパンツが
何気なく見えていたり、胸が過度に大きくて揺れまくっているという、そのようなけしからんやつか?
と言われれば、そうだと言えるしそうでは無いとも言える。いや、それ以上だともいえる。だからこそ
卑猥で麻雀に対する見方がまた別の側面からも捉えられかねないとも思える所以だ。
もし咲のキャラ達のパンツが見えていたり、胸が普通に大きかったり揺れているぐらいなら、
別に普通に興奮できるだろうし、麻雀にも少しは集中しようかとも思えただろう。
だが、咲に登場する女の子キャラというのがこれまた皆、どの娘もパンツを見せないというのが
困りものなのだ。パンツをおおっぴらに見せびらかさないのは当たり前なことだし、むしろ
健全でいいことじゃないのか?と思うかもしれないが、まあ普通に見せないという姿勢なら
それはそれで良かったのだろう。だけれども、咲の女の子たちはパンツを見せない代わりに
何とお尻の肉は見せてきやがるのだ。これはどういうことだ?パンツからはみ出ているお尻の
部分が見えているということか、はたまたパンツ自体をはいていないということなのか?、
いずれにしても女子高生のスカートから直にお尻の肉が見えていることはあまりに無理があり、
これはかなりのブタでかなりのミニスカをはいている女子高生しか通常考えられない表現であり、
尻肉がスカートからはみ出ている女子高生というのは、いくら見た目がかわいかったとしても、
普通に見苦しい。興奮などまず起こらないし、尻肉がはみ出ることで麻雀に向かっていた
まっとうな視線までを削ぐ結果にもなりかねない。お尻の下の方が見えている女子高生など
普通に気持ちが悪く、そのようなことをやらされている咲に出てくる女の子キャラ達は皆、
どこか表情が同じように感じられて、能面のようで怖い。
お尻の肉以外にも、とびぬけておっぱいが大きく描かれている原村和というキャラのおっぱいの
膨らみ方には、あまりにおっぱいの大きさを誇張しすぎて、もはや乳首がある形跡が見て取れない
という欠陥もある。
このようにあまりに麻雀をやる女の子キャラ達の性の部分の過激な描写を押し出しすぎることで
肝心の麻雀部分には全く目もいかず、麻雀部分においても、初心者などに対する
ルール説明などの配慮もほとんどなされていないことから、結果、この咲という作品を通じては、
ただ麻雀をカワイイ女の子キャラと絡めるだけの、麻雀の本来の趣旨からは外れた、
楽しみ方ばかりを提供されているような印象を受ける。終。
であろう”麻雀”。それは麻雀が囲碁や将棋と比べれば、よりお遊びとしての側面が強いため
だろう。囲碁や将棋は日々鍛錬を重ねて、熟慮に熟慮を重ねた上での指す一手が勝負を
分けるのに対し、麻雀はいかんせん運の要素が強すぎる。運が勝負を分けるということで、
大人のお遊び、ギャンブルと共に扱われることが多いこともまた、教育の現場で扱うには
似つかわしくなく、部活動などとして認められない原因となっているのだろう。麻雀は、
カジノでのポーカー遊びなどで楽しまれているトランプと同列の遊びであり、トランプ部が
無いのと同様、また麻雀部も存在しえないのだ。
そんな麻雀を、架空の話では部活動として存在させ、それもピチピチの女子高生たちによる、
麻雀にかけた熱き青春ライフとして描いている麻雀アニメ、”咲”という作品がある。
漫画原作であり、現在は第二期に当たる咲~阿知賀編~なるものが放送されていて、
麻雀好きの女子高生たちが集まり麻雀部をつくり、麻雀の全国大会をめざして奮闘する
話が描かれている。
咲という作品をきっかけとして麻雀に親しみを持ってもらい、若い層に麻雀が
普及すれば、ゆくゆくはこの作品の様に麻雀が部活動として認められれ、女子高生たちが
出場する麻雀の全国大会なんかも実際に開かれる日が来るのではないか?と淡い期待を、
している一部の層の人間も、もしかしたらいるかもしれないが、この咲という麻雀アニメを観る限り、
少なくとも麻雀が普及するきっかけにはなるだろうが、麻雀に対するややもするとこれまでのような
穿った見方を払拭するまでの作品にはなっていないと思える。逆に、麻雀に対するあまり
よろしくないイメージをさらに助長することになるのでは?という描写が咲の中では多々観られる。
それは”咲”が、麻雀が持つ楽しさといったものを伝えることよりは、どちらかというと女の子たちの
魅力を前面に押し出した作品作りを重視しているためである。もちろん作品の取っつきやすさとして
カワイイ女の子キャラ達の魅力をまず押し出すのは定跡かもしれないが、その魅力の表し方と
いうのが、かなり卑猥な方面に偏っているように感じる。それはアニメ的によく挙がるパンツが
何気なく見えていたり、胸が過度に大きくて揺れまくっているという、そのようなけしからんやつか?
と言われれば、そうだと言えるしそうでは無いとも言える。いや、それ以上だともいえる。だからこそ
卑猥で麻雀に対する見方がまた別の側面からも捉えられかねないとも思える所以だ。
もし咲のキャラ達のパンツが見えていたり、胸が普通に大きかったり揺れているぐらいなら、
別に普通に興奮できるだろうし、麻雀にも少しは集中しようかとも思えただろう。
だが、咲に登場する女の子キャラというのがこれまた皆、どの娘もパンツを見せないというのが
困りものなのだ。パンツをおおっぴらに見せびらかさないのは当たり前なことだし、むしろ
健全でいいことじゃないのか?と思うかもしれないが、まあ普通に見せないという姿勢なら
それはそれで良かったのだろう。だけれども、咲の女の子たちはパンツを見せない代わりに
何とお尻の肉は見せてきやがるのだ。これはどういうことだ?パンツからはみ出ているお尻の
部分が見えているということか、はたまたパンツ自体をはいていないということなのか?、
いずれにしても女子高生のスカートから直にお尻の肉が見えていることはあまりに無理があり、
これはかなりのブタでかなりのミニスカをはいている女子高生しか通常考えられない表現であり、
尻肉がスカートからはみ出ている女子高生というのは、いくら見た目がかわいかったとしても、
普通に見苦しい。興奮などまず起こらないし、尻肉がはみ出ることで麻雀に向かっていた
まっとうな視線までを削ぐ結果にもなりかねない。お尻の下の方が見えている女子高生など
普通に気持ちが悪く、そのようなことをやらされている咲に出てくる女の子キャラ達は皆、
どこか表情が同じように感じられて、能面のようで怖い。
お尻の肉以外にも、とびぬけておっぱいが大きく描かれている原村和というキャラのおっぱいの
膨らみ方には、あまりにおっぱいの大きさを誇張しすぎて、もはや乳首がある形跡が見て取れない
という欠陥もある。
このようにあまりに麻雀をやる女の子キャラ達の性の部分の過激な描写を押し出しすぎることで
肝心の麻雀部分には全く目もいかず、麻雀部分においても、初心者などに対する
ルール説明などの配慮もほとんどなされていないことから、結果、この咲という作品を通じては、
ただ麻雀をカワイイ女の子キャラと絡めるだけの、麻雀の本来の趣旨からは外れた、
楽しみ方ばかりを提供されているような印象を受ける。終。
タグ:咲 原村和 巨乳 パンツ
朝アニメでエウレ~カ! [アニメ 講評]
朝っぱらからアニメを観ると鬱になる。こういう気持ちになるということに、久方ぶりに
気付かされたのは、日曜朝7時からアニメを観るという習慣が何年かぶりに復活したからだろう。
何でよりにもよってこんな日曜という最もうっとおしい曜日を選んで、それも朝の7時から、
それもこんなかっちりとした模範的アニメをやりたがるのだろうか?現在、宇宙兄弟という、
漫画原作の非常にかっちりとした出来を誇るアニメをやっていて、ストーリーもテーマ性があって、
笑いもほどほど分かりやすく盛り込んできて、毎週安定して観れる抜け目ないと思える作品だ。
その後7時半からがっちりマンデーでまたかっちりがきて、その後8時から中山のヒデちゃんが
ガッツリ美女に囲まれている様子を眺めて、その後、張本の喝!かぁ~つ!とまたこれも
かっちりとしたジジィの憂さ晴らし説教を聞かねばならんというのに。これから一日が
始まろうという朝7時から、何をそんなすべてを飲み込もうとする宇宙なんかをテーマとした
壮大な兄弟の夢物語をおわされにゃならんのだ。これは朝やるよりは、せめて夕方、本当なら
夜11時ぐらいがベスト。コナンあたりと入れ替えてしかるべき教育的内容の作品である。
宇宙兄弟を観ることで、久方ぶりに日曜の朝7時からアニメを観る習慣が復活したわけだが、
それでは前は一体何のアニメのために日曜朝7時に起床していたかというと、これはまた
都合がよく現在エウレカセブンAOという続編が放送中の前作、エウレカセブンのためにである。
エウレカセブンは、もう確か~かれこれ~6~7年前ぐらい前に、日曜の朝7時から、それも
1年に渡って放送されていた大変印象深い作品である。
エウレカは確かその作品のジャンルをフィロソフィアフィクションなどと言っていて、いわば
哲学的SFというような意味らしく、確かにセリフは哲学的な部分がちょいちょいあり、
その世界観も抽象的だと感じることがあった。いろいろとあいまいな部分が多かった作品だが、
観ていて付いていけないかと言われれば、全然そんなことはなく先鋭的な部分が多くて、
一年にも渡ってじっくりと楽しめたとても良い作品だと言えるだろう。それはレントンはじめ
エウレカやアネモネなど、タルホや何やと、キャラクター達もそれぞれが立っていて、
キャラクターたちの熱気が感じられたから作品の世界観も受け入れられたのだろう。
今放送中の続編、エウレカセブンAOでは前作との繋がりがどの程度あるのかは
分からないが、何やらAOの主人公であるアオは、前作のエウレカが生んだ子供であるような
フリがあった。ということは父親はレントンだろう。どことなくアオはレントンっぽくもあるし、
髪の毛がエウレカと同じ色に染まっていたので、まあそういうことだろう。
だからといって前作からの続いている話と言うのではなく、おそらくはキャラクターだけが
移住した、パラレルワールド的な話に当たるのではないか?今回は普通に日本や沖縄やら
現実の地名も出てきてるし、前作でもパラレルワールドがあるみたいなこと、誰か
言ってなかったか?数年前に、忘念のザムドってあったけど、あれもエウレカのスタッフが
作った、エウレカのアナザーサイド的ストーリーだろう。終。
気付かされたのは、日曜朝7時からアニメを観るという習慣が何年かぶりに復活したからだろう。
何でよりにもよってこんな日曜という最もうっとおしい曜日を選んで、それも朝の7時から、
それもこんなかっちりとした模範的アニメをやりたがるのだろうか?現在、宇宙兄弟という、
漫画原作の非常にかっちりとした出来を誇るアニメをやっていて、ストーリーもテーマ性があって、
笑いもほどほど分かりやすく盛り込んできて、毎週安定して観れる抜け目ないと思える作品だ。
その後7時半からがっちりマンデーでまたかっちりがきて、その後8時から中山のヒデちゃんが
ガッツリ美女に囲まれている様子を眺めて、その後、張本の喝!かぁ~つ!とまたこれも
かっちりとしたジジィの憂さ晴らし説教を聞かねばならんというのに。これから一日が
始まろうという朝7時から、何をそんなすべてを飲み込もうとする宇宙なんかをテーマとした
壮大な兄弟の夢物語をおわされにゃならんのだ。これは朝やるよりは、せめて夕方、本当なら
夜11時ぐらいがベスト。コナンあたりと入れ替えてしかるべき教育的内容の作品である。
宇宙兄弟を観ることで、久方ぶりに日曜の朝7時からアニメを観る習慣が復活したわけだが、
それでは前は一体何のアニメのために日曜朝7時に起床していたかというと、これはまた
都合がよく現在エウレカセブンAOという続編が放送中の前作、エウレカセブンのためにである。
エウレカセブンは、もう確か~かれこれ~6~7年前ぐらい前に、日曜の朝7時から、それも
1年に渡って放送されていた大変印象深い作品である。
エウレカは確かその作品のジャンルをフィロソフィアフィクションなどと言っていて、いわば
哲学的SFというような意味らしく、確かにセリフは哲学的な部分がちょいちょいあり、
その世界観も抽象的だと感じることがあった。いろいろとあいまいな部分が多かった作品だが、
観ていて付いていけないかと言われれば、全然そんなことはなく先鋭的な部分が多くて、
一年にも渡ってじっくりと楽しめたとても良い作品だと言えるだろう。それはレントンはじめ
エウレカやアネモネなど、タルホや何やと、キャラクター達もそれぞれが立っていて、
キャラクターたちの熱気が感じられたから作品の世界観も受け入れられたのだろう。
今放送中の続編、エウレカセブンAOでは前作との繋がりがどの程度あるのかは
分からないが、何やらAOの主人公であるアオは、前作のエウレカが生んだ子供であるような
フリがあった。ということは父親はレントンだろう。どことなくアオはレントンっぽくもあるし、
髪の毛がエウレカと同じ色に染まっていたので、まあそういうことだろう。
だからといって前作からの続いている話と言うのではなく、おそらくはキャラクターだけが
移住した、パラレルワールド的な話に当たるのではないか?今回は普通に日本や沖縄やら
現実の地名も出てきてるし、前作でもパラレルワールドがあるみたいなこと、誰か
言ってなかったか?数年前に、忘念のザムドってあったけど、あれもエウレカのスタッフが
作った、エウレカのアナザーサイド的ストーリーだろう。終。
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